【column】擁護はしないけれど、それは自然な展開にすぎない。

「必要悪、ってなんなん」

そんな感じで、必要悪という言葉に違和感を持ちながら生きてきました。必要な悪。必要なものなら「悪」に分類しなくてもいいのでは? 素直に「必要」とすればいいのでは? とひねくれた考えをしてしまうのです。

先日『不倫と正義』(中野信子、三浦瑠麗)を読み終えました。2022年4月に刊行された新書で積読状態にありましたが、“気分”で手に取って、3〜4時間の移動中にするすると。

・アルギニンバソプレシン(AVP)という脳内物質がある。その受容体のタイプによって、1人のパートナーといるのが心地よいのか、複数と関係を結ぶのが心地よいのか異なってくる
・脳のタイプで性的行動が大別される。例えば、特定の脳タイプを持つ人が浮気を繰り返す場合、それは「病気」ではなく脳の「形質」によるもの
結婚の4階建て構造(1階:生活安全保障、2階:親としての責任、3階:夫婦間の信頼関係、4階:恋愛感情や性的な関係/nice to have=あったらいいけどなくても構わない、相手に要求しても得られるとは限らない。3階までが築けていれば夫婦関係は維持できている)

など、興味深い情報や思考に多々触れることができ、著者おふたりの私見も多分に含まれた書籍でした。本書では“世間”が不倫を激しくバッシングし、有名人であれば社会的に抹殺されるレベルにまで追い詰められることにも言及されていますが、読みながら「必要悪」という言葉が自分の中にふっと思い浮かんでいました。「不倫といえば、必要悪と捉える人も世の中にいるよね。でもさ、必要“悪”ってさ?」と。

SNSを観察していると「部外者なのにそこまで言うか……?」と引いてしまうくらい有名人の不倫報道がこっぴどく叩かれる事象や、定量的なデータを見たり定性的な話を見聞きする限り、一般人の不倫もまったく珍しくない、どこにでも転がっているような話であるわけで、シンプルに「人の関係性の一種」と見ています。

不倫に至る理由は人それぞれ。性的な欲望だけではなく、既存の関係では得られない何かを別の相手によって得たい、満たされたい、傷を癒したい、自分らしくありたい、といった切ない背景もあると想像します。そこには結婚という諸々制約のある枠組みへの疲弊、結婚によって生じる(と本人が捉えたり、周囲から期待されたりする)役割を背負う苦しみからの一時的解放、自由に身動きがとれない結婚制度からの一時的脱出、現実逃避的な要素もあると思います。

私は27歳から2年数ヶ月結婚していた時期がありましたが、子どもを持たない経営者・自営業の自由な夫婦で、互いに経済的に自立し、各自ひとり時間もふたり時間も楽しみながらのびのびと生きていたため、制約や制限の類を感じたことはありません(仮に子どもがいたらと考えると、それらを重荷に感じただろうと想像します)。

そんなわずかな結婚生活でしたが、一度でも法律婚を経験した者としては、ある「枠組み」の中にいたとて、どんな種類のよそ見もせずに生きていくのは不可能だと身を以て感じてもいます。パートナーを愛し続けることはできても、これだけ多様な人が世の中には存在していて、生きているだけでたくさんの出会いにあふれているのだから、ある程度のよそ見、脇見をするのは不自然なことではないと考えるのです。

ここで「愛する」というのは、相手を大切にすること、傷つけないこと、味方であること、相手を笑顔にする、ふたりともが笑顔でいるための方法を考えて行動することなどを指します。恋愛感情という炎が燃え尽きると、落ち着いた愛に変わり、ポジティブな言葉でいうなら「安定」や「安心感」がもたらされます。不安のないステージに進めるのは素敵なことです。ただ、ここで悪魔が登場します。「慣れる」→「飽きる」ようプログラミングされている脳の仕組みです。

世の中に変わらないもの(ヒト・モノ・コト)はない——これを前提に考えると、変化していく結婚生活の中で、変化していく結婚相手に対し、自らの水準で多様な要素を求めることは困難を極めないでしょうか。

私は親になったことがないため、これまで聞いてきたたくさんの人の話をもとに、あるいは両親を思い出して想像するだけですが、結婚から数年、十数年も経った夫婦間で親要素(子育てという「事業」を進める共同パートナー)/家族要素(親要素とも重なりますが、家庭という小組織の運営を行う共同パートナー)/恋人要素(性愛パートナー)の大きく3つの要素を“すべて互いが満足のいく状態に維持・管理する”のは非常に難易度の高い事柄ではないかと。

(ここから少し極端なことを言いますが、あくまで自由な空想なので「不倫を擁護するな!」などと怒らずに聞いてください)

要素を分解して、関係性を分散する——共同パートナーは夫(妻)と、性愛パートナーは夫(妻)ではない人と——みたいな在り方が成立すれば、それがコソコソ隠れてすべきことではなく、人間社会の自然な営みとして表現されるようになれば、結婚はもっと自由になるし、家庭でストレスを抱える人は減り、むしろ家庭円満になるケースもあるだろうし、不倫なんて概念は消えるのだろうなと、自分が生きている間は到底認められることのなさそうな空想をしながら眠りについたら、そんな世界になっている夢を見ました。

安定と飽きとの間で、理性をもってして戦う人間。ただ、ときに理性をなぎ倒す出来事があってもおかしくはありません。その結果、度合いに差はあれど、よそ見、脇見をすることがあったとして、愛する人に悲しい経験をさせなければいいんじゃないかとも思うのです。

「よそ見、脇見するなら、私に分からないような気遣いをしてほしい」
=単なるよそ見、脇見であれば、それこそ墓場まで持っていってほしい。こちらとしては「知らないまま生きていく」方が心身のダメージを受けないから

「よそ見、脇見が本気に変われば、私に即報告してほしい」
=自分以外の人に心も本気になったら、パートナーと自分との間に愛がなくなる。愛のない状態で関わり続けるのは空虚で、互いに時間の損失になる。だから関係を即解消したい

離婚して7年近く経つ今は、こんな考えが形成されています。私は男性の心理があまりわからないし、鈍感なところがあるし、やること・やりたいことも膨大にあるため、過去に何かあったとしても気づかず、通りすぎてきたのかもしれない、という感覚もありますが……。ただ、大事な人とその想いのままに向き合うことは、今後も変わらず続けていきたいと考えています。

出版されたばかりの頃、読んだなあ。