「小金持ちで、気前のいい男性」が、かつての自分の「好きなタイプ」だった。
今、36歳。恥を忍んで言うと、離婚した29歳くらいまで、その考えだった。
整理してみると、離婚するまでにお付き合いした彼は5人いて、うち3人が中小企業経営者(いかに中小企業の数が多いか、ということでもある)。ビジネスの才があり、それなりにお金を持っている人たち。
同い年の彼を除き、ひとまわり以上年上の彼もいたから(当時の私にとっては)「こんなに大胆にお金を使ってくれるんだ」とうれしかったのを覚えている。
自分との時間や贈り物にお金を使ってもらえる=大事にされている、と結びつける思考。
完全に間違いではないけれど、そこはイコールではない。
大学時代、後半2年はバイトの稼ぎで学費を払っていた私は、お金が恋しかったし、お金に対し執着心を持っていたような気がする。
「お金があれば選択肢も可能性も広がる」と考えたから、就職先も大手を選んだ(※初任給が高かろうと、企業から雇用される立場になるより、スキルをつけて起業して成功した資金を元手に投資側に回る方がお金は圧倒的に増えていくし、金持ちになる可能性は高い、という発想は頓馬な私にはなかった)。
と同時に、メディアの発信に毒されていて、お金を使ってもらえる=いい女、みたいなイメージもあったと思う。恥ずかしい。
*
「好きなタイプ」が変化したタイミングは、30代前半のときだった。
離婚してから今日まで付き合ってきた4人の男性の中には、5〜6歳年下が2人いた。
どちらも学校関係の職業で、収入も経済観念も経営者とは違う。
離婚後に交流していた人たちも、羽振りのいい自営業者や会社役員が多かったから、年下彼の金銭感覚や生活観は私にとって新鮮だった。
堅実で、派手さはない。非日常ではなく、日常を大切に、慈しむ。
そんなことを30代前半になってようやく、彼らから教えてもらった感があった。
いかにそれまで非日常や刺激に浸かりたがっていたか、という話でもある。
休日朝、彼が作ってくれたベーコンエッグとつやつやの白米、味噌汁の朝食をいただく。
平日夜、彼の家へ行き、彼が作ってくれたちゃんこ鍋をいただく。
休日昼、ふたりでスーパーへ行って食材を買い込み、彼が作ってくれたちらし寿司をいただく。
(……って、自分、作ってもらってばっかやん? 食べてばっかやん? と怒られそうだが、料理が上手くて料理をしたい彼、洗い物が好きな私と役割を切り分けていたのです。得意なことは頼ったほうが相手も喜ぶので。無理やり作らせていたわけではない。にしても、私の周りは洗い物嫌いな男性が多かった気がする……)
ささやかな日常をふたりで重ねていくことの豊かさを教えてくれたのは、2人目の年下彼だった。
*
そんなこんなで、今。私の「好きなタイプ」は「かっこつけない男性」である。
かっこつけないをもっと具体的にいうと、必要以上に良く見せようとしない、見栄を張らない、他人の目を気にしない、かっこ悪い部分も見せられる、といったところだろうか。
というのも、身体を鍛えたり、肌や歯、爪などのケアを怠らないようにしたり……といった最低限の部分ではかっこよくいよう、清潔でいようと努めてほしいから。
現在の彼は医師だから、私が付き合ってきた小金持ちに近い人なのだろうけれど、彼らとはちょっと異なる。使うときは使うけれど、堅実さも持ち合わせている。加えて「ふたりの日常」をなるだけ楽しくしようとするし、絶妙なタイミングで素晴らしい提案をしてくれる。
今は高級車にも興味がないし、タクシーに乗ろうとも言わない。
車を手放し、ロードバイクで通勤しているヘルシーマンであり、10〜15km先の目的地に「自転車で行くからね」と言うようなスパルタ部活顧問的な、いや「日常に運動を溶け込ませたいマン」だ。
自転車で一緒に遠出すると、鰻や鮨をご馳走してくれるので、私はそれに釣られてついていく。
「5km越える頃からおしりが痛いよ〜。おしりが四角く、硬くなる〜」とブーブー言いながらも、「がんばれ。美味しいお鮨が待ってるよ」と励まされつつ、なんとか漕ぎ続ける。
あるとき「自転車だとおしりが痛くてかなわないから、私は走ってついていく」と言うと、サドルをタオルで覆い始め、ガムテープで固定し始めた。「これで痛くないと思うよ」と一言。
タオル研究所のふわふわタオルに、粘着力の高いガムテープを貼るなんて、何しとんー! テープを剥がした後、タオルの糸がぴんぴん飛び散って、タオルボロボロになるけど? とびっくりしたけれど、彼は何も気にしていない。「行こ」とニコニコしている。
痛くないサドルやサドルカバー、サドルクッションが今は手元にないけど、その子さんのおしりがなんとか痛くなりづらいようにするには、サドルにタオルを巻いてガムテープで固定するのがベターなやり方——。
彼としてはそんなシンプルな発想だったのだろうけど、この行動は誰もがすることではないと私は感じていた。
かっこつける人なら、人目を気にするだろう。
かっこつける人なら、こんなお手製のサドルカバーは付けないだろう。
かっこつける人なら、「じゃあ今日は自転車はやめて、別の交通手段で行こうか。サドルクッション買おう」となるだろう。
でも、彼はそうじゃない。
いい意味で人目を気にしないし、私のおしりが硬く、痛くなる状況を改善しようとし、そのときにできる最良のアクションをした。
その日は大阪の都市部に出かけて、いくつかの場所に立ち寄った。自転車から降りて停めるたびに、そのサドルやサドルをセッティングした彼のことを愛おしく感じて、笑みが漏れてしまったことを覚えている。結局、おしりは途中で痛くなったのだけれども。
かっこつけない人こそ、かっこいい。